「天才」について思うこと
我々は「天才」が好きです。
他人をはるかに圧倒する能力を備え、
人々に深い感銘を与える唯一無二の存在。
歴史的にも名を残すようなそんな彼らに対し、我々は畏怖を込めて「天才」と呼びます。
天才の定義は場面によって使い分けられると思いますが、
ここでは「歴史上の大天才」から「身近な天才」も含みます。
現役だとよくイチローが引き合いに出されますが、
本人が「天才と言われることは侮辱だ」のような趣旨の発言以来あまり彼を「天才」と呼ぶ人はいなくなったかなと。
それでも、その孤高で稀有な存在はやはり彼を「天才」と見ているような気がします。
いずれにせよ人がある人物を「天才」と呼ぶとき、あるいはあなたが誰かを「天才」と呼ぶとき、どのような感情が働いているのでしょうか?
「彼の営業としての素質は天才的だ。」
と言ったとき。
それを聞いた人は発言者が一歩下がって「彼」を持ち上げているように感じるため、その場は非常に冷静でフェアな空気感になると思います。
この発言に対して、「いやそんなことはない。」と否定するのは、
逆に自分が鼻持ちならない人物になってしまうようです。
大抵は「そうだよね。」となるはずです。
で、ここで重要なのは、この話している当人たちの立ち位置がこの
「彼の営業としての素質は天才的だ。」(この発言者をAとします)
「そうだよね。」(こちらをBとします)
によって、営業力の面では同列あるいは同類となっていることです。
Aは「彼」を持ち上げると同時に、Bを自分の方に寄せ、仲間意識を自然と醸し出したのです。
場は、この一瞬でなごむわけです。少なくとも「表面的な」空気感としては。
ここで「表面的な」と言ったのは、
Bは内心「そうかな?」と感じているのかもしれないからです。
ここで、そもそもBがAに対して、一定の距離感を持っていたとすると、
反射的に「おまえと同類になんかなるもんか」という感情が働きます。
すると、内容としては否定しずらい場合、口では肯定しておきながら、
実は内心では「しらけ」ています。
逆にAは内心「よしよし」と。
AB同列に置くことができ、仲間意識を確認できたぞ、と。
例えば、こんな具合に「天才」という発言はその場の空気感の醸成に利用されることが多いと思うのです。
ここに存在するのは、あきらめと安心です。
Aは自分には到底達成できないということを、世間一般にも広げ、それを他人(B)に認めさせることで、自分だけが達成できないのではなく、「彼」が特別なのだという言い訳をしているのです。
また、もうひとつ言うと、この場ではAは「彼」の評価者になっていると言うことです。
Aは気分がいいですよ。
逆にBは内心、「なんでお前が評価するんだ」と感じているかもしれません。
もうひとつの例として、例えばテレビ番組で、
「数多くの名曲を作り上げた天才モーツァルト」
と紹介されたとき、どう感じますか?
「そうそう、彼は天才だね。」
「それは一般常識として誰もが否定できないよね。」
「でも、彼は欠点も多かったようだし、30代という若さで他界し、あれだけの偉業を成し遂げながら寂しい晩年を迎えたことは、人生の代償としては大きい。」
先ほどの「彼」にしても同じなのですが、「天才」と聞いたときその反面の欠点も探すような気がするのです。
天才だが、真似たくない人生。
歴史上の天才と呼ばれる人たちはこの両輪のバランスが取れている人ほど
「安心して」評価されるのだと思うのです。
だから、実績がいかに目立った人であっても、
それに見合うだけの欠点というか、ある意味人生としては欠落したようなものを感じさせないと、天才談義への登場回数は少なくなると思います。
ただ、モーツァルトのような、努力もしないで(本当のところはわかりませんが)圧倒的な結果を残すような人物は確かにスカッとしますよね。
大バッハやベートーヴェン、ショパンにしたって、名曲を数多く世に出したという点ではもっと天才と呼ばれて良いはずですが、上で述べた両輪の一方「真似たくない人生」のレベルが低いのです。
ゆえに、イマイチ面白みに欠ける。
いいばかりではなくそれ相応の代償があるのだという「安堵感」が少ないのです。
人は結局「天才」と人を呼ぶとき、この「安心感、安堵感」を求めて発言しているのだと思います。
ゆえに、『「天才」という言葉は人の甘えが生んだもの』だと考えられないでしょうか?
正直私は「天才」と聞くと、最近は醒めてしまいます。。
(最近ひねてるんですかね・・・^^;)
とうとうと失礼しました。
またお読みいただきありがとうございます…m(_ _)m