「あっ、こんなとこにあった!」と気付くためのブログ

奇想天外な発想の源はあなたがすでに持ってます。

自分自身を信用するということ

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私の部下に自信喪失している人間がいるのですが、当然ながらやることなすことうまくいかない。
 
人の話を聞いていてもどこか上っ面だけ聞いて「はい、わかりました」と言う。
そう答えていても、その後質問してみると、やはりよく分かっていない。
 
しかも、人に訊いてきて教えてあげると時折「そう思ってました」というような回答がくる。
これを言われると、きかれた方は「だったら訊いてくるなよ!」と内心憤りを覚える。
 
そんなことが続くから、周囲もだんだん話を真剣に聞いてくれなくなるし、真剣に教えようという意識が乏しくなってくる。
 
それでも本人は周囲には頼ってばかりいる。
またどういうわけだか、自信が無いながらも何等か作業しており、その作業量についてだけは自信を持っている。
 
「自分は仕事している!」
という自己満足感はあるようだが、当然周囲はそれほど評価していない。
その評価を伝えるのは上司の役目だが、伝えても自分では周囲ができていないことをやってあげているというような意識がある。
 
何か屈折した自己認識を持っているんですよね。
 
そんな彼のことを、ここしばらくの間改めて考えてみたのですが、そこである結論に達しました。
 
人はだれでも外向きの自分と内側の自分を持っていると思うんです。
 
外向きの自分は建前に代表されるような人から見られる自分ですね。
また、外に向かって表現する自分でもあります。
外界との接点ですね。
 
一方内向きの自分はというと、その言葉の通り、本音の自分ですね。
 
ただ、どちらが本当の自分というわけではなく、外向きも内側もどちらの自分も、自分を構成している要素であると思うのです。
 
で、どうも彼の場合、この外向きの自分が内側の自分をどこかで信用しなくなったのではないかと思うのです。
 
彼は過去10年ほど前に当時の上長からパワハラを受けたせいでウツになったことがあります。
 
その際に内側の自分はできない人間だということにしてしまったのではないかと。
そうでもしないと、収まりがつかなかったのでしょう。
 
その一方で外向きの自分は批判されないことを何より重要視して、人が言ったことを受け入れるような「素振り」を見せるようになったのではないかと。
それは、自分が理解できていてもいなくても、一様に「なるほど」的な反応をすることでいさかいを避けようとするのです。
また、自分は劣る人間だと思われないように、わかったふりをするのです。
 
しかし、周囲からはどう見ても「分かってない」し「自信もなさげ」に見えるのです。
 
そう周囲から思われていることが認識できていないようです。
 
彼は、内側の自分を信用していないため、無責任にも周囲に対して分かっている振りをすることを続けており、それが定着してしまっています。
 
普通であれば、内側の自分が理解できるかどうかを計りながら会話を進めるものですが、彼の場合それが欠落しているのではないかと。
 
だから、外向きの自分はその場では分かったような反応はするものの、内側の自分へ一切引き継がないのです。
 
どうせ分からないでしょ。とばかりに。
 
それが彼のスタイルになってしまったのではないかと。
 
しかし、そんな彼にも自尊心はあるので、内側の自分を信用していないくせに、一定の存在価値を分かってもらいたいという欲求だけはしっかり残しているのです。
ゆえに「本当は役に立っている」「みんな知らないだけ」などという、中途半端な自尊心を周囲に出すことがあるのです。
 
今彼にひつようなのは、内側の自分を信用してあげること。
 
私が思うに彼は本来の自分を出せれば、周囲の人間よりパフォーマンス高いと思ってます。
 
ところが、最も信用してあげなければいけない自分自身が最も信用していないため、まるで根っこの無い植物のようになっているのです。
どうしたって、枯れるに決まっているのです。
 
でも彼はそんな中で「何かないか」と無理やり、落ち葉をかき集めて「どうですか!」と見せるわけです。
 
すでに周囲の人間はあきらめてます。
先月までの彼の上長もあきらめてます。
 
正直私もこの職場では無理かと思い始めてました。
 
しかし、今月からまた私の部下となったことで、今一度あらためて考えたのです。
 
「原因は何だろう・・・」
「どうすれば良いのか・・・」
 
あくまで直感的なものですが、彼の場合何かが掛け違えているだけであって、うまくはまれば状況が一変すると思っているのです。
 
その根源を「内側の自分を信用していない」という部分に見出したのです。
すべてがしっくりくるのです。
あくまで私の感覚ですが。
 
原因が分かれば直しようもあると考えます。
 
自分の課のパフォーマンスを上げるということより、彼の人生において仕事が辛く苦しいものとなってはいけないと思うのです。
 
それは彼だけの問題ではなく、彼の家族、友人、職場の同僚や関係部署の人間、などなどのためでもあるのです。
 
彼はウツになる前はリーダーとして大活躍していたそうです。
 
と言って、その時の彼を取り戻すというより、新生の彼を産み出したいと思うのです。
また、それができるのは今は私しかいないのではないかとも思うのです。
 
この1年でできれば生まれ変わらせたいですが、生まれ変わるのは私が上長から外れた後かもしれません。
それでも、その種まきとなるような1年にしたいですね。
 
それでは。。

でっかい夢とは?

なんなんでしょうかね…?

でっかいというのは、物理的な話なのか、金額なのか…。

昔、ドラゴンボールの歌に、恐竜に玉乗り仕込みたいとかいうのがあったのですが、正直言って嫌いでした。
なんかどうもただ物理的にデカイだけで、それをもって自分たちはスケールが小さいと言われてるようでイヤだったのです。
(そもそも私自身がドラゴンボールの悟空のような天真爛漫&純真無垢なキャラクターが嫌いというへそ曲がりなのもありますが…(´ω`))

それましたが、大きければいいというわけでも無いと思うのです。

また、お金も一定の尺度には使えるかもしれませんが、やっぱり道具なわけですよね。
本来商売の媒介でしか無いはずのものを目的としてしまい、内容は問わないとするのは不健全だと思うのです。間違いの元とも言えるかもしれません。

結局のところみんな幸せになりたいというのが究極の目標だと思うのです。

「今も十分幸せだ」
という人もいるでしょう。
それは何よりなのですが、であればその幸せをずっと維持したいことでしょう。

幸せになることについて否定される人は基本的にいないだろうとして、問題は「幸せ」の中身ですよね。

どうすれば、あるいはどういう状況が自分にとって幸せかです。

じっくり考えたことありますでしょうか?

いわゆる一般的な幸せ像なるものを自分にも当てはめてませんでしょうか?

それはそれで一旦良いとして、では何故その状況が自分にとって幸せに感じるのでしょうか?

例えば、結婚して初めての子供が出来、3人での団らんを楽しんでいるひと時なんかです。

何故幸せに感じるのでしょうか?

ここからは人それぞれだと思うのです。
ここで一般的な回答を探そうとしたなら、あなたは自分の人生を生きていないと言えるかもしれません。

そして、何に幸せを感じるのかを突き詰められたなら、それがあなたにとって人生とは何なのかの回答かも知れません。

またあなたの夢のあり方にもつながると思うです。

でっかい夢とはあなたの人生においてこれ以上ない幸福感や充実感を与えてくれるもののことだと思うのです。

一般的にでっかいと思われるかどうかなど、どうでもいい基準です。

問題はあなたの人生に対する影響力です。

今一度あなたにとっての幸せとは何なのか、それはどうして幸せと感じるのかを、極力主観的に考えてみてください。
その先に「あなたの夢」がありますから。

ではまた。

 

 

夢を持って生きてますか?
 
聞くと大抵、「特には持ってないかなぁ…」というような反応でしょう。
 
むしろいい大人が「夢があるんだよね」なんてなことを言うと、一応「いいですね!」なんて言うかもしれませんが、本音では(能天気だねぇ…)と感じるんじゃないでしょうか。
 
我々大人はよく子供に対して、
「夢を持つのはいいことだ!」
「大きい夢を持つんだぞ!」
などということがありますよね。
 
いいですよね。
夢を持たせることはいいと思います。
 
ただ、何を思って夢を持たせようとしているのか?です。
言っている側の我々大人がです。
 
「サッカー選手になる!」
「医者になる!」
「お菓子屋さんになる!」
 
まぁ色々あると思いますが、何かに気づきませんしょうか?
 
どうもたいていの場合、何らかの職業を言っていることが多いと思うんです。
すでに存在している職業です。
 
その中で選んでいるんです。
 
なぜでしょうか?
 
子供はけして馬鹿じゃありません。
言語化できないだけで、いろんなことを受け止めています。
また価値基準が大人と異なります。
 
その価値基準は成長するにつれ大人たちの言うことに合わせています。
モノごごろつく前から大人の価値基準を聞かされ、怒られ、褒められ育ってきています。
 
そうしていれば、小学校3年生くらいにもなれば十分大人がどういった回答を期待しているのかをわきまえる術(すべ)を心得ています。
 
小学校高学年で夢を聞かれ、
「木の上で暮らしたい!」
「世界一のダイヤモンドを手に入れたい!」
「ずっとゲームしていたい!」
などという子供がどれほどいるでしょうか?
 
上の例は非常に子供っぽいです。
幼稚です。
ただ、素直な意見だと思うのです。
 
こういった回答を受けると、そうかそうかと一旦受け止めつつ、
「それじゃどういう人になりたい?」
「何をしたい?」
などと聞いてみるのではないでしょうか。
 
暗に職業の方向へ向かわせてます。
そう聞かれた子供はハタと悩みます。
分からないのです。
 
そりゃそうです。
今までそれほど職業など気にしたことはないですから。
知っている職業など、挙げても大した数にはならないでしょう。
 
しかもどうやらワクワクするような、大人が期待するものを提出しないとならない様子です。
聞いている大人は今か今かと待っています。
 
(どうしよう、トラックの運転手じゃまずいよな、別にやりたいわけでもないし、、、スーパーの店員さん、お医者さん、総理大臣、、、うーん、どれも違うなぁ、あ、そうだ学校の先生なんかどうだろう、、、そんなに興味はないけど、考えてみるとみんなのリーダーみたいで面白そうだし、何でも知ってるし、何より大人からエライ!と言われそうな気がするな。よしこれにしとこう!)
 
かくして、
 
「学校の先生!」
 
「!!」
「なに、学校の先生!それは偉いな!そうかそうか。それなら沢山勉強しなくちゃな!」
 
「うん、がんばる!」
 
微笑ましいですね。
これが本心ならばです。
 
もちろんみんながこうだとは言いませんが、多少なりとも大人の顔色を伺って考えてるんじゃないでしょうか?
 
でなきゃ、こんなにみんなの夢が重なりますかね?
 
下の表はからの第一生命HPからの抜粋です。
(>第一生命さん、保険には入ってませんが、お借りします(。-人-。) )
 

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そろそろ、大人たちはこの不自然に「作られた夢」に気づくべきですよ。
 
ポイントは2つです。
① 夢は職業だと考えてしまっているところ。
② 知っている職業が非常に限られていること。
 
この二点観点が違いますが、どちらも問題だと思います。
 
ただ、大枠でみると、結局のところこう言えると思います。
 
視野が狭い!!
 
この視野の狭さはどこから来るのでしょうか?
 
そうです、お気づきでしょうが、大人が植え付けているのです。
 
大人が自分たちの狭い価値基準を知らず知らずのうちに子供に刷り込んでいるのです。
 
夢とはなんでしょうか?
大きい小さいを置いておいて、まずは自分の人生の価値をどう見るかといことではないでしょうか?
 
自分の親や祖父母など近しい人間を病気で亡くしてしまったという子供はもしかするとそれがきっかけとなって、「医者になる!」「薬の開発者になる!」など考えるかもしれません。
これは本音で言っている可能性が高く、いくら上の表の上位にあるからと言って、同じように否定する対象とはなりません。
 
先の2点の問題点も彼(彼女)にとっては問題ではないでしょう。
仮にいろんな職業を見たり、様々な生き方を目にしてもさほど変わらない可能性が高いです。
むしろ、世の中にはそういった病気で亡くなっている方が多いと知ることで決意を強くするかもしれません。
 
夢とは「何」ではなく「状態」だと思うのです。
 
その一つの姿として、職業があるのかもしれませんが、厳密には現在は無い職業であることも多いと思うのです。
私の地元には、ダンスしながら焼く焼き鳥屋さんがあります。
50代くらいのおじさんが一人で。
持ち帰り専門の焼き鳥屋なのですが、面白いし焼き鳥もおいしいので、よく売れてます。
しかし、彼はダンスする焼き鳥屋を昔から夢にしていたのでしょうか?
 
違うと思うのです。
正直言えば、やりたいことをやっているだけなのかもしれません。
ただ、押しつけがましくなく、もし世の中の人にこのスタイルを受け入れてもらえるのであればありがたい、ということかもしれません。
 
人生において夢は非常に重要です。
 
子供たちの夢を大事に守ってあげたいと思います。
 
ではまた。。

子供の可能性

子供は勝手
子供はワガママ
子供は未熟
子供はバカ

口に出して言わずとも大人の一般的な子供のネガティブなイメージはこんなところでしょうか。
もちろん良いところも沢山ありますが、それとて大抵は上から目線で見下ろしての感想です。

子供に政治の話しますか?
トランプ大統領の話しますか?
哲学の話しますか?

どうせ分かるわけがないと思いますよね。
あるいは、そんな話しても聞くわけがない、と思いますよね。

でもそれって我々大人の思い込みかもしれませんよ。

昔テレビでやってた池上彰さんの「週間こどもニュース」は子供もその為にキャスティングされてるんで、興味ある雰囲気なのは当たり前ですが、でも、本当に興味を引く伝え方をしたら聴いてくれると思うんです。

実際うちの娘が小学2年の時にお金の話をしたんです。
単語は使ってませんが、内容は銀行の役割、利子、FRBニクソンショックあたりです。
絵を描きながらなるべく伝わるように噛み砕いて話しました。
ここで言っておきますが、うちの子は特別頭がいいわけでもないです。5段階ならオール3て感じです。要は普通です。

でも、じっと聴いてくれました。
そればかりでなく、話が終わった後に「(FRBが)ずるいじゃん」と。話の趣旨も理解もしてくれていました。
時間にしておそらく20分くらいでしょうか。

私がここで言いたいのは、小学校でも世界レベルの出来事や、世の中の仕組みの話をどんどんした方がいいのではないかという事です。

四則演算や方程式、英語やプログラミングも良いですが、そもそもそれらは何に使うのか、何のために使うのかが重要ですよね。

大人はそんな事当然と思っているかもしれませんが、子供はただクイズのように叩き込まれているだけです。
最近やっと地元の企業や農家などに社会科見学に行ってリアルを学ぶケースも増えてはいるようですが、子供たちの頭の中で普段の勉強とつながっていないように思います。

常に何のために算数を学ぶのか、国語が役に立つのかを意識する必要があります。

さらには自分は何のために勉強するのか、です。

世の中を広く知る事で、自分はこうしたいとか、何をしたい、こういうことが世の中に必要ではないかという事を考えるのだと思うのです。
地元の勉強ももちろん重要ですが、それだけでは視野が狭くなります。
世の中には様々な価値観があります。
だから戦争が起きるし、摩擦が絶えないのです。

その糸口となる知見をなるべく早い段階で伝えるべきだと思うのです。
それが日本のためでもあり、世界のためになるのだろうと本気で思っています。

時間が来ましたので今日はこんなところで。。。

恐るべき敵

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一体何処にいるのでしょうか?
恐るべき敵。
それはあなたに敵と悟られぬよう、味方を装って近づきます。
あなたはその人を無視できません。
何故ならあなたはその人をある意味信頼しているからです。
しかもその敵はあなた自身も持ち合わせているのです。
そこが厄介なのです。
敵はそれを知っています。
実はあなたは陥れて欲しいと願っていることを。
その敵を味方だと信じたいということを。
 
さて、そろそろぼんやりお気づきでしょうか。
恐るべき敵とは何でしょうか?誰なのでしょうか?
 
それは「普通の人たち」です。
 
街で行き交う人たち
満員電車で通勤する人たち
会えば挨拶する人たち
あなたの同僚
あなたの友人
あなたの家族
 
要するに周囲の人々すべてですが、こう言われる方もいるかもしれません。
 
「でも変わった人たくさんいるよ!」
 
そうですよね、普通と言っても全員同じ性格などあり得ませんよね。
もちろん変わった人たちもいるでしょう。
 
でもここでいう「普通の人たち」とは、「日々目先の事だけ気にしていればいい」「自分の人生は何も特別なことは起きない、起こしてはならない」
と考えている人たちのことです。
 
もちろん誰だって不幸な事は避けたいと思います。
 
ここでいう「特別なこと」というのは、他人と異なる行動を能動的に取るかということです。
 
さて、例えばあなたがどうしてもパン屋を開きたいと考えているとします。
自分が作りたいパンというのは、健康的で且つ購入しやすい自然派低価格路線です。
高くておいしいパンは多いですが、オーガニックで低価格はほとんどありません。
しかし、パンは主食でもあるため、毎日の食材です。
それがスーパーと比べて3倍も4倍もしたのでは通常の家庭では難しいです。
 
その難しい課題を克服してせめて通常のパンの1.5倍程度に抑えたオーガニックパン屋をやりたいのです。
 
初期投資はかかりますし、今まで店を開いた経験などありません。
いわゆる普通のサラリーマンですが、パン屋をやりたい夢は以前からありました。
周囲からすれば単なる衝動のように思われるかもしれないのですが、本人としては非常に強い意志があります。
 
突然のようにパンの材料を買い込み勉強を始めます。
 
正直言って、家族からすると何が彼をそうさせているのかさっぱり分かりません。
いままでの生活に特別は不満はないのです。
これからもこのまま維持してもらえれば問題ないのです。
 
そこにきてリスク海の中に飛び込むような真似を始めているのです。
家族をはじめ周囲の人間には奇異としか見えません。
 
当然止めに入ります。
「いったいどうしたんだ!?」
「今のままでいいじゃないか!」
「子供の将来を考えろ!」
 
この様子は、洗脳宗教が引き戻そうとするのと大して変わりません。
もちろん、周囲の人たちは良かれと思って止めていますが、非常に主観的です。
 
そのような人たちとあなたが会話をしたところで、そもそも思考の次元が違っているので全くかみ合いません。
そうこうしているうちにあなたはだんだん、実は周囲の普通の人たちこそが、恐るべき敵なのだと考え始めます。
 
彼らは自分たちこそ普通と思っている。普通とは、最もあるべき姿だと。
それはある意味そうかもしれませんが、問題は自分の人生は何も特別な事なく、ただ何事もなく過ごすことが正解だと考えている部分です。
それこそが普通であり、当たり前だ考えているのです。
逆に自分たちと異なるのは異常なのだと。
 
だから金持ちや有名人などの成功している人たちは異常なわけです。
 
そういう人たちは、自分とは離れた存在であって、自分に近しい人がそうなる事に対しては、表面上歓迎しつつも懸命に阻止しようとします。あるいは心の中で見放します。
 
さて、この「恐るべき敵」。
これはあなた自身の心の中にもいます。
 
だからこそ同調してしまったり、誘われると安心したりするのです。
要するに甘えですね。
 
人は誰でもラクしたいですし、逆に辛いことやリスクのある事は避けたいものです。
 
と言って常にツラい方の選択が正しいとも限りませんが、経験上8割方は長い目で見れば「辛い選択」の方が正解のような気がします。

裏評価

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わたし、管理職やってるんですが、今月から新しい部署を見ることになったんですよ。
そこで感じてるんですが、仕事が良くできて評価が高かった人が必ずしも人間的に優れているかというとそうでは無いわけです。
そりゃそういうもんでしょ、と思われるかもしれませんが、初めは何となく期待しちゃうんですよ。
だって上司から見ると助かる存在ですから、そのムードで人間性も見たくなっちゃうんです。わたしも人間ですから。

でもここ2週間ほど関わってみると、仕事をこなす能力とは別に、その人の人間性と言うか性格も見えてくるじゃないですか。

うちの会社では、管理職間でやり取りする情報の中に、部署を引き継いだ際にその部下の仕事能力面とは別に、性格とか傾向とかの人格的な面の情報も引き継ぐんです。
もちろん前任管理者の主観ではあるんですが、これが非常に大切なんです。

ともすると先入観になってしまう可能性もありますが、そこは大抵の管理職は冷静に記載しているため、あまり偏った情報でも無いので、ワリとそのまま参考にしてます。

仕事能力は経験とともに変わることがありますが、人格的な面はそうそう変わらないですよね。

で、それを参考にしながら実際にその人を見て見ます。
すると大抵当たってます。本当にそうだなと思う事が多いです。

ただもちろん、他にもどんな特徴があるかな、と見ますよ。
何度も会話など重ねるうちにその人が見えてきますよね。

上司が変われば態度も変わるという人もいます。と言うか多かれ少なかれみんなそうですね。
全くと言っていいほど変わらない人はむしろ要注意だと思います。自分を出してない可能性があります。

それはさておき、いくらかその人の「人となり」を知ったら、その上で大まかなその人の特徴や傾向を自分なりに組み立てます。

これは点数的な要素はありません。
あくまでわたしの主観で見るその人の傾向です。

また、女性は輪を作る傾向が強いので、複数いるときはその間で常に情報交換が行われていると思った方がいいとわたしは考えてます。

だから、わたしがある部下に言ったことは他の人にも伝わっていると考えます。それも伝わる際にはいい形である事は少ないだろうと。

なので、わたしはどんなに愛想よくわたしに接してきてもその部分はあまり信じません。

裏の表情というのは思っている以上に辛らつなものです。
それを何度も目の当たりにしているだけにそう考えるようになりました。

わたしは相手のふとした眼差しや態度に注目します。
そういう非言語の方がよほどその人の考えていることを語っている事ってありますよね。

仕事の内容がかわっても人間性はなかなか変わりません。
でも、その人の社会的な評価は最終的には人間性なんだろうと思ってます。

それゆえ、わたしは自分の部下にそれを伝えたいですが、なかなか難しいですね^_^;

学校の科目

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学校の教科は細分化されており、他の教科に被らないようにしてカリキュラムを組んでいる。

しかし実生活実社会では単教科に依存した出来事などほぼありえない。

故に生徒側は勉強することに意味を見出すために、テストで良い成績を取るという目標を見立てるか、その教科の専門家になるかという選択をせざるを得ない。

いずれにしろ実社会とは必然的にズレが生じてしまう。
そのためこれからは総合的な教科が発達してくると考えられる。
試験の採点が困難であるため採点に関して色々工夫されると思う。