普通と異常
A:普通の顔、普通の性格、普通の判断力
B:異常な容貌、異常な性格、異常な思考
通常、Aの仲間になりたいと思いますよね。
それはBの場合何をされるか分からないからだと思います。
だいたい怖い。。
人は「判らないモノ」に恐怖するのだと思っています。
逆を言えば、判りきったもの、慣れ親しんだものは良いもの、美しいものと感じるものとだと。
でも、その価値観はもしかすると、一般社会通念からくる幻かもしれないと最近思い始めてきました。
Bのようなところにこそ真実が存在するのかもしれない。
Aはいわば「無理に作られたもの」かもしれない、と。
普通、人は「自分はAでありたい」と思うでしょうし、そう振る舞います。
それはそれでも良いかもしれませんが、Bを頭から忌み嫌うのはやめた方がいいかもしれません。
結局は自分の本能として良いもの悪いものを判別するべきなんだろうな、と思います。
Aを好むのは安心感もありますが、他者から異常と見られたくない、まともな人間と思われたいというエゴもかなりあると思います。
今私が勤めている企業(某有名企業です)のオフィスにいると、みなさんなるべく均一的にふるまうので、多分にAの要素が多いです。
そうすると、これが「正解」だと思ってしまいます。
こうでないBのような部分を感じると「これは間違いだ。」と、内容より前に先入観でそう感じてしまいます。
でもそれは自分の本能ではないです。
自分の中での論理的な理解抜きに、一般社会的に(要は他人目線で)普通か異常かという判断基準なわけです。
ではその一般社会や他人て、具体的に誰なんだろうか?
会社であなたの前に座っている人でしょうか?
その人はすべてにおいて平均的であり、一般的と言い切れますか?
人は必ず異常な部分を持ち合わせていると思います。
それをせっせと隠しているのです。
その異常な部分が最近どんどんなくなってきているように思います。
同性愛者は本来異常なのでしょうが、それでもどんどん正常化されていると思います。
私が言いたいのは、平均化されることによって見えなくなるもの、異常な中に潜む真実に目を向けるべきではないかということです。
無理に平均化されたところに真実など無くて、
異常に見えるところに本来の姿というか普遍性があるように思います。
多分に感覚的な部分も多いのですが、
昨日戸塚ヨットスクールの校長の話を聞いた時に、
現在の一般社会的には「異常」とみなされがちな「正論」だと感じました。
でもその一見異常なところに真実があるのではないか。
耳あたりのよいものほど危ないのではないか。
色鮮やかな刺身やリンゴが劇薬だらけのように。。
ではまた。。