「あっ、こんなとこにあった!」と気付くためのブログ

奇想天外な発想の源はあなたがすでに持ってます。

区別と差別

だいぶ以前から思っていたことを書きます。

 

女性と男性

白人と黒人

健常者と身体障害者

太った人とそうでない人

などなど。。。

 

世の中、「蔑視」とか「差別」と言われる場面に囲まれていると思います。

 

これらを分けようとして、何らか発言すると即座に「差別だ!」とされることが多いと思います。

しかし、正直実際に異なると思うんです。

 

全く同じにしようとする方が無理があると。

人種差別がもっとも影響範囲が大きいと思いますが、

黒人やユダヤ人、在日を差別するというのは、加害者にも被害者にも責任があると思います。

 

加害者は不必要にその他の人に比べて差分を設けるのは良くないと思います。

ただ、結局のところどうしても生活習慣や民族性の違いから、会社や学校レベルでは問題ないが、同じ集合住宅に居住する場合は少々抵抗があっても致し方ないと思います。

 

特に宗教的に日に6回も祈りを捧げるイスラム教の人たちが多く住む中に白人がストレスを感じずに暮らせますか?と。

 

そこには根源的に容認できないものがあると思います。

それって仕方ないと思うんです。

 

忌み嫌うというより、自分との生活様式の違いから純粋に迷惑となってしまうと思うのです。

イスラム教信者としても迷惑をかける気などサラサラ無いわけで、これはもう同じ住宅地に混ざることに無理があると思います。

 

また、根本的に考え方が異なる国や民族との関係は一人二人ならしっかり知り合えばあまり問題無いかもしれませんが、数十人集まれば、あるいは全く知ら無いもの同士であれば、許しがたいものになってくると思います。

民族に代々受け継がれる思考というのは本人たちもそれほど気にしていないのでしょうが、かなり色濃く伝えられているのだと思います。

 

分かり合える。

そうなればよいですがそれは頭でわかるだけじゃダメなんだと思います。

根底の部分でずれていれば、だんだんそれが増幅されていくものだと。

 

アパルトヘイトナチス時代のゲットーのような隔離は、私も嫌いです。

 

ただ、選択肢を用意した上で、特定の民族村のようにできる区画はあってもよいのでは無いかと思います。

そこでは一定の文化も継承されると思います。

 

有名かもしれませんが、こんな話がありました。

ある国際線で白人熟年女性が自分の隣に黒人男性が座ることに腹を立て、CAに自分の席を替えるようクレームを入れました。

しかし、エコノミークラスは満席でした。

そこでCAは、時として「不愉快な隣人」のため席を移動することがあるので、今回は特別にファーストクラスに移動してもらうことを説明しました。

しかしそのCAが移動を伝えたのは、白人女性ではなく、黒人男性でした。

周囲の乗客はそのCAの機転に拍手喝采を送ったということです。

 

要はバランスだと思うのです。

やっぱり容認でき無いレベルというのはあると思います。

 

最近話題に上がる共和党候補のドナルド・トランプ氏も、女性に対する差別的発言や移民に対するかなり厳しい発言も、差別に対する社会的拒否感が行きすぎて、だれもが口に出せなくなった、いわばタブーをあえて口に出したのだと思います。

そうしたら、やはり、というか同調する人間が多かった。

ただの阿呆ならだれも相手にしないかもしれませんが、彼は凋落を経験した筋金入りの経営者。

説得力や魅力もあり、今やすっかり人気者ですね。

 

曽野綾子さんも路線としては似たようなものかもしれませんが、主張する場が少なかったですね。

人は集団でいじめるのが好きです。

その理由が社会的に認められるもっともらしい理由だと、なおさら思う存分相手を痛めつけることがあります。

「差別」という単語は往々にしてそのような場で利用されるのだと思います。

 

曽野さんの趣旨は「そこ」ではないように思います。

でも、差別主義者は「そこ」に持っていきます。

 

ちょっと話は飛びますが、安保法案=戦争主義者のように位置付ける民主党なども同類だと思います。

彼らは周囲の国が、「友愛」という言葉で「話せばわかる」と信じ続けています。

何を根拠にその自信が湧いているのかわかりません。

個人で信じて、個人で実行されるのは構いませんが、国を巻き添えにされたらたまったものではありません。

 

やはり、世の中色々な考え方の民族がいるのです。

そこは一定の区別をしながら接しないと、むしろ軋轢を生むだけだと思います。

 

区別と差別は違います。

 

その線引きを自分の中で確認しながら生きていくことが重要だと思います。

 

ではまた。。