自己の存在について
嫌韓論とかね、行き過ぎは嫌いです。
韓国側も、お互い様ですけどね。
他者を責めてる時って自分の存在を相対的に高めて確立しやすくなるんで、快感なんですけど、麻薬ですよ。
それが当然になっちゃまずいと思うんです。
みんなね、元は人間で、根本的にはそんなに大きくは変わらないのじゃないかと。
やっぱり後天的な環境に寄るものが大きいですよね。
ただ、アイデンティティの持ち方は重要です。
「自分は日本人なんだ。」
「日本人とはこういう民族なんだ。」
「この民族であることに誇りを持っている。」
この辺の意識の持ち方は、自分がどういった両親を持っているのかとも非常に密接に関係してくると思います。
「自分」とは自分の感情や価値観の前に、どういう枠組みの中で存在しているのか?
という認識がどの程度確立しているのか。
これが
あやふやだったり、
自信の無いもの、
誇れないもの、
むしろ否定したいもの、
になってしまっていると、自己の存在としては欠落した大きなハンディを負ってしまっていると思います。
逆にそれを行動へのパワーに還元できる方もいますが、
アイデンティティのよりどころを別なところに確立する必要がありますよね。
日本人はよく自信が足りないと言われますが、日本人という人種は逆に自信を持ち始めたら大変なことになりそうな気もします。
程度を知らないというか。。目的が無くても進んでしまうとこがある気がしますので。
そういう「何に向かってるんだ??」と理解できない部分が海外からすると「恐ろしい」のではないかと。
日本人は宗教観が欠落していると海外から思われているとすれば、
「何を信じて生きているんだ?」
となるわけですよね。
一神教を信じる人種には根本的に理解できないのだと思います。
一神教は上下関係を必然的に作る宗教だと思います。
仏教も釈迦という存在が最も上位とすれば、その意味では同じですね。
そういった状況だと、盲目的に言う事を聞いてしまう形が出来上がりやすいと思います。
その結果がテロへとつながるんではないかと。
日本のいわゆる神道は、神という存在をあがめるものとは少々おもむきが異なります。
八百万(やおよろず)の神と言われますが、神社をつくってあがめる以前に、自然の存在そのものに感謝し、その中で謙虚に生きていくという「姿勢」が日本古来の宗教観ではないかと。
自然より上に神が存在するというその他の宗教とは、その意味で根本的に異なると思います。
アフリカの原住民もその意味では日本の八百万の神の精神に近いような気がします。
彼らは自然に逆らいません。
大自然の中で、自分たちは他の動物や植物と同じ生き物であるという自覚があります。
非常に謙虚です。
自然に対して畏怖の念はありますが、必要以上に恐れたりはしていないと。
人類はそもそもアフリカから発生したと言われますよね。
その彼らは今も生き方の姿勢を崩しておらず、
(もちろんアフリカ民族全部じゃないですよ。今となってはごく一部かもしれませんが、主に狩猟民族です。)
もし「世界平和」というものがあり得るとすれば、
ワタシはこの「すべての存在に対する謙虚さ」こそが、それを可能にするものだと信じてます。
宗教でもなければ、核ミサイルでもないです。
もちろん、日本人やアフリカ原住民だけじゃないです。
欧米にも他のアジアにも、そういった信念を持ってらっしゃる方は多いと思います。
自然とたどり着くのだと思います。
宗教も核ミサイルも麻薬です。
重要な場面で、その判断や力に頼る事になってしまうのです。
本当は重要な場面、
自分が自信を失いそうになったとき、
愛する人を失ったとき、
大きな決断に迫られたとき、
に他に頼るのではなく、
あくまで「自分で気付く」ことができるのが本来の姿であり、あるべき姿何ではないかと。
その気付くきっかけは、謙虚に周囲と向き合う事で必ず得られるものだと信じています。
自分の存在を活かすも殺すも自分の思い込みです。
この謙虚な姿勢をたえず持っていれば、
他の存在からどんどん(生きる)力をもらえることにもなり、
結果自己の存在が自信を持って確立できるのだと思います。
え〜、本日は以上です。
ありがとうございました。。。m(_ _)m