支配者と被支配者
どんな世界でも同じです。
国でも、会社でも、取引関係でも、場合によっては友人関係でも。
必然的にそうなってしまうことが多いのだと思います。
仮に、すべてフラットで単に意見のとりまとめ役がいるという状況でもルールが必要ということですし、とりまとめ役がだんだん力を持つ事になってきます。
とりまとめ役の人間性が非常に重要ですね、この場合。
なにを決めるにも対立意見は必ず出ますよね。
一方を採択すれば、一方は不満になります。
じゃ、折衷案を、、と思ってもそう簡単じゃないでしょう。
それにしても一つの意見だからです。
その折衷案に対しての反論もまた出ます。
いつまでたっても決まりません。。
決めるには絶対者の決定か、みんなで決めたルール、多数決とかが必要になります。
ところが、この多数決というやつ、これ自体にはいわゆる「正しいこと」を判断する能力などありません。
しかしながら、「多数派=正」のような図式が確立してしまいます。
なので、多数になりさえすればOKという考え方がはびこります。
すると人間の行動はおかしくなってきます。
多数にするために買収はする、事実は歪曲して伝える、内容よりもイメージ重視に走る、投票数字を操作する、などなど。
こうなると、どんどん大衆は「正しさの判別」をできなくなってきます。
そうなってくると、頭のいい人たちは、いい加減大衆の頭の悪さに吐き気がしてきます。うんざりします。
失望感もあるでしょう。
たとえばかつて、ケインズとハイエクの論争で長期的に優れているのはハイエクだと、誰もが認識できるはずだったのに、大衆の結論は、すぐに結果の出る楽な方法を選びます。
当たり前と言えば当たり前なのですが、愚かと言えば愚かです。
もちろん、頭のいい人たちの中には単に利己的な人もいるでしょう。でも、おそらくは自分たち民族の存続を願う人も多いのだと思うのです。
念のためですが、ここで言う「頭のいい人たち」とは政治家やいわゆる知識人を指してません。
権力や知識とは別の次元です。
でも権力を持っている人であれば、つい自分の利益もしっかりむさぼってしまうのは人間ぽさなのでしょうね。
とはいえ、その権力者や政治家もとっかかりは民族のために動き始めたのだろうと。(もちろんそればかりでない事は分かってますが。。)
民族は大きい単位ですが、
対象を広げると、企業だったり、団体だったり、チームだったり、部署だったり、サークルだったり、ママ友達の輪だったり、家族だったり、するわけです。
集団の中で一部の頭のいい人たちは、その他の人たちに任せていたら、いつまでたっても前進しないのが分かっているので、コントロールしようと画策します。
この時点ではいいとか悪いとかではないです。そうでないと人類のためにならないとまで考えるのです。選択肢が無いと。
で、あたまもいいし、権力も金も手段もあるので、いろんなことができちゃうんです。
そうするとですね、うまくいっちゃうんですよ。
うまくってのは、思う通りにという意味ですが、そうなってくると「こりゃおもしれー!」となるんですよ。
そのあたりはみんな人間似たようなものですよ、所詮。