「あっ、こんなとこにあった!」と気付くためのブログ

奇想天外な発想の源はあなたがすでに持ってます。

世の中真逆ですよ!

勉強してから、社会に出るのではなく、社会を知ってから勉強するべきだ。

小さい子供が言葉を覚えるのは勉強が始めではない、どうしても目の前にいる母親に声を掛けたいからだ。

そういう欲求がまず初めにあって、「知りたい」と感じるのではないだろうか?

それを興味を持つ前に叩き込もうとする。

幼稚園や小学校低学年までは何とかごまかせても、すぐに飽きられてしまう。

そして当然のように嫌いになる。

大人も大人で、子供は勉強が嫌いなものという認識を持っており、それを無理にでもやらせるのが学校や親の役目と考えている。

これでいいのだろうか?

 

目的は認識せず、まずは一方的、強制的に詰め込まれる。

おなかすいてないのに無理やり食わされるようだ。

それで肥満体質ならぬ、頭でっかちにさせて何かいいことがあるのだろうか?

 

詰め込むほうも詰め込む方で何を願ってやっているのか分かってない。

 

お互いに何のためにやっているのか分かっていないし、分かろうともしないのだから尋常じゃない。

 

社会や親がそんな育て方をして、社会が視野に入ってくる中学生の時代にグレるのは当然でしょう。

中学生とは、今までやらされてきたことが一体何のためなのかを自ら考える時期です。

解釈できないですよ。

消化できないです。

グレたり、反抗したりするのは当然だと思います。

私から見ていても正直中学生が不憫です。

 

社会や親はこぞって、パワハラしてるようなものです。

パワハラして洗脳するんです。

「今は分からないだろうが将来必要なんだ!」

「お前のためを思って言っているんだ!」

 

こんな文句がまったくピンと来ないからグレるんですよ。

引きこもりだって、「そりゃそうしたくなるのもいるだろ」ということですよ。

 

やりたいことやらせればいいんです。

そういう度量を社会が持てば、日本の未来どころか、世界の未来が明るくなります。

 

発達障害なんて無くなりますよ。

あれは社会が生み出したんですよ。

 

偏差値信仰は日本人になじみ過ぎました。

ゲームですね。まるで。

でも人生そんな数値で測れるほど単純じゃないですよ。

 

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世の中真逆ですよ。

・偏差値の高い人間は、実はバカが多い。

・規律正しくするのであれば、むしろ自由にさせろ。

・勉強の前に社会の仕組みを見せろ。

・成果を見たいなら評価するな。

・金が欲しいなら、稼ごうとするな。

 

管理するから不満もたまるしウツにもなるわけです。

自殺者が出ると、解決策として管理を手厚くしようとするが逆効果です。

 

実施するのは対処療法ばかり。

いつまで経っても進歩のない打ち手。

でも同じ打ち手なのに、色味や形を変えるものだから、何となく目新しく見えてしまう。

頭の良い人間は、見せ方もうまい。

 

でもちっとも状況は良くならない。

良くなったと思っても一時的。

 

それは本質の改善を求めてないから。

それやっちゃうと、大変だしね。

そんな事しなくても給料もらえるから。

 

一体何のために仕事してるんですかね?

一体何のために生きているんですかね?

教育について

・生活にはお金が必要。お金を稼ぐためには仕事が必要。より高給の仕事であれば、それだけ物質的にも環境的にも豊かになるはず。だから、より高給の仕事に就きたい。

・より高給と言ってもリスクが大きいものは難しい。

・なるべくリスクが無く、安定していて、高給と言えば、大企業や銀行などか。

・しかしそれらに入社するにはまず高学歴でないと面接すらできないのが現状。

・ゆえにまずは高学歴であることが、将来の幸せな生活へ結びつく。

・これはごく自然な発想に思える。

 

・しかし重要な点を見過ごしている。

・それは、結局お金が目的となっていることである。幸せという形のないぼんやりしたものはこの場合、すべてお金で買えると思っている。

・また、仕事の内容についてはほとんど検討されていない。一般的に立派に見えるものであればよいという認識か。

・親がそうであれば、その子供もそういう認識になる可能性は高い。

 

・お金に隷従していることに気づかず、自分の人生の大半をお金のために我慢して過ごすことになる。

・その状況について疑念を持たないように学校教育が成り立ってしまっている。

・大企業に入りやすい人材ということは、いかに企業側にとって都合よい人材かということでもある。当然のように企業に隷従することにつながってしまう。

・まれにその体制に我慢できずに飛び出す人間もいるが圧倒的に少数派である。

・会社を飛び出すことは、残る人間からすれば、リスクが高いようにしか見えない。

 

・しかし、多数派が残るそういった企業は社会に不要なものを生産していることが多い。

・社内の仕事にしてもほとんどが不要、あるいは役に立たない作業が多い。それでもそれらに対して給与を支払う。そしてそれで生活する。大半が無駄な作業なのに。

・我々は何をしているのだろうか?ママゴトだろうか?

 

・本当に必要なことだけ考えれば、こんなに時間が必要だろうか?

・しかし現実は、だれも大して考えずに目の前の仕事のみをこなす。そうすれば一応給料はもらえる。周囲の人間もそのようにしているから、特に自分だけ異例ということはないので、そのまま続ける。そして、周囲と同じように不満を持ち、それを同じように発散し、同じようなことに満足する。(愚痴、TV、買い物など)

・非常に限られた範囲で限られた行動を毎日同じように繰り返している。これが、世の中に確かに貢献できている実感があれば、それはそれでよいと思う。しかし、そんなケースはまれではないだろうか?

 

・教育すべきは何なのだろうか?

・大企業入社へ向けて学習することが正しいのだろうか?

・そうではないかもしれない、と考える父母も多いだろう。しかし、彼らはほかの選択肢を思いつかない。

・ほかの選択肢は、どれもこれもリスクが高いように思われるからである。

 

・テストの点数が高い低いで一喜一憂。

・高ければ親はせいぜい日ごろのマナーを注意するくらい。

・低ければいつまでも勉強し続けろという。遊ぶことは悪だと考える。

・これは正常だろうか?本当にあるべき姿だろうか?

・その子の将来は明るいのだろうか?

・さらには日本の将来は明るいだろうか?

 

・たいていの場合、ある程度の業績を上げた人が子供のころどのように勉強していたかを聞くと、特段猛勉強していたというより、普段から好奇心が旺盛だったとか、本をとにかく読んでいたとかいう話が多い。

・テスト勉強一辺倒で大成したという話はとんと聞かない。

・そんな成功事例のようなものを聞くにつけ、たいていの人は「やっぱりすごい人は違う。うちの子は凡人だからテスト勉強し続けるよりない。」と決意を新たにしてしまう。

 

・親、特に子供に影響力の強い母親が社会経験をしっかりと積んでいないことが多いのではないだろうか。

・あるいは一定の業務だけやっていればそれなりの生活が保てるという認識しか、社会人としても感じていなかったのかもしれない。

・そもそも女性の場合上昇志向が少ないことが多いので、そうなりやすいのかもしれない。

・要するに企業に隷属する形だ。それを子供にも反映させる。少しでも「安定して、高給の企業へ」となる。

・それがより幸せとなる礎だと。

 

・無理もない発想かもしれない。

 

・今の親の前の世代はまさにそのような社会通念を体現してきたような人が多く、それを見て育ってきたのだから無理もない。

 

・しかし、時代とともに状況は変わる。それは自分が見てきた範囲でもそのはずだが、特段ひどい目にあったことが無いため、貧困を経験せず、これからもそうだろうとなる。

・これを変えるには、何かショックが必要なのかもしれない。

リーマンショックはあったが、個々の生活まで影響があった人は私の周囲には少ない。

・それを避けてこられたのはラッキーかもしれないが、逆に無頓着に生きてしまう元凶を無意識に育んでいたのかもしれない。

・こういった人たちにいくら言ったところで、思いを新たにするのは容易ではない。

・いつか本当に来る危機を待つよりないのかもしれない。

 

・ほんのごく一部の人間だけが、世の中を俯瞰(ふかん)し、周囲の出来事を冷静に見たときにその事実に愕然とし、自分の中での常識が覆される。

・その時、あなたは事実と幻想のどちらの道を選ぶだろうか?

・まるで映画「マトリクス」に出てくる、薬のカプセルだ。

マトリクス カプセル に対する画像結果

 

 ・わかる人間にはわかる。わからない人間には、というより分かろうとしない人間だろうか。両者の存在の割合は大体1:9なのかもしれない。

・ここに気づく道筋としてはいろんな切り口があるかもしれないが、お金に関わるものが最も強力で被害が少ないかもしれない。例えば、株で大損するとかのショック。

・命に係わるようなレベルだとトラウマになることも多いだろうし、逆に極端な認識に陥るかもしれない。

 

・しかし、できればなるべく若いうちにこの見方に気づきたいものだ。

・そのためにはまずその両親が気づくことが必要かもしれない。まだはっきりとはわからなくても、どうもそうらしいというレベルでも良いので。アクションを起こすことが重要では。

・しかしどうやって分かってもらうのかが難しい。

・全く分かっていない人でも聞けばなるほどと思うかもしれない。

・しかし、分かろうとしない人はなかなか困難だ。そんな親の子供は自力で将来そういったターニングポイントに出会えればよいけども、こればかりは分からない。 

自分の価値

自分が対応している案件やタスクは、どれも書いてしまえば1レコードです。
でも、モノによって手間がかかるものが当然ありますね。
めんどくさいなぁと私も感じることがあります。
まして、その相談主が横柄な態度だったりするとなおさらですね。
良かれと思って気を遣うことなど全くせず、さっさと最低限の対応だけして終わらせよう、みたいな。
ま、とうぜんですね、人間なんですから。

でも面倒な問い合わせ対応なんかは、逆に考えると貴重な体験とも取れると思うんです。
心理的に負担だなぁと思ったら、むしろこれは自分が成長するチャンスなのかもと。
何かに対応すれば、なんかしら知らないうちにでも経験にはなっています。
ただ、その内容の問題ですよね。
これは貴重な経験だ、と感じながら対応すると10に感じるものが、
面倒に感じながら対応すれば1の経験程度で終わっていまうかもしれません。

1なのか5なのか、10なのかは感受性というか感性次第かなと。
横柄な態度をとられたときに、自分はこうではないよなとかそういう部分があるか気を付けようとか、さらには逆にこういう人でも良いところがあるのかもなど。
最後のは例えば、自分自身を振り返る機会をくれたことに感謝とかね。
何だか聖人の態度のように聞こえるかもしれませんけどね、どうすればよい人生を過ごせるかっていう秘訣はこういうところにあると思うんです。

他人を憎んだり、他人のせいにするほど簡単な感情はありませんよ。
逆に自分が気分がいい、褒められたい、尊敬されたいなんてのも同じですね。
だから、勝手にそう思い込んだり、人が社交辞令で言った言葉をそのまま受け止めたり。

そんなことしてたら、粗末な人生になると思うんです。

会社への不信

やっぱり大企業はなくなっていくと思う。

組織は仕事を細分化していくので、どうしても面白くなくなる。

 

それでも評価しなければ給料を決められないから、無理くり評価基準を決める。

そうすると、意味不明な評価基準が出来上がる。

書いてあることはもっともらしいけど、まったく実態に合っていない。

でも皆格好をつけることだけはうまくなってしまっているから、「こういうものだ」と自分も周りも納得させてしまい、結果何のために仕事をしているのかを考えなくなる。

 

いわば、人生思考停止状態。

これについては、昔から偏差値という名の判断基準に慣らされてきた世代には自然に感じてしまい、むしろ居心地が良かったりする。

 

仕事は数字。

数字は正しい。

人の感覚はあてにならない。

 

確かにそうかもしれない。

でも数字はやっぱり一材料に過ぎないと思う。

その数字を正しいとみるかどうか、活用できるかどうかは受け手側の主観に頼るものだと思う。

でもそんなことをなるべく排除してただただ数字を信じることが組織人のあるべき姿かのように考える人たちが多い。

 

そして、そういう人たちこそが上へあがっていく。

そうやって、さらに数字管理が徹底される。

 

見える化

ひと頃、私の会社でも流行りました。

というか今でも呪文のようになっています。

これを言われると、否定できない雰囲気に圧倒されてなにも反論できなくなります。

反論しようにも、「見える化」に対抗するには、自分の出す数字が不正確かもしれないというような流れになってしまい、正に墓穴を掘る形になります。

 

それでも、この言葉への極端な信仰心は恐ろしい。

 

今、私の会社でもAI化やロボット化などを強力に進めようとしている。

AIに仕事を奪われるのでは!?と戦々恐々になる人たちもいるが、AIはまだまだそんなに万能でもない。

任せられるタスクはほんの一部分だけだろう。

それでも発達してきたのは確かではあるが。。

 

私はAIが仕事を奪うのではなく、むしろ人間がAIになりたがっているように思える。

AIはどんどんファジーになっていくので、機械化と言った方がよいかもしれない。

 

どんな成果も数値で評価しようとし、どんな仕事も細分化しないと気が済まない。

タスク管理表で進捗を管理することがマネジメントだと思い込んでいる。

 

何のために?という部分が「仕事だから」でかたずけられている。

 

何のために仕事をしているのだろうか?

評価のため?

上司の指示だから?

会社の利益のため?

 

あなた一体何のために生きてるんですか!?

と問いたくなる。

起きてる時間の8割は仕事に使ってるんですよ!

 

こういった言葉はほんの5年ほど前には周囲に通じませんでした。

でも最近ちょっと違います。

少しずつですが、耳を傾けてくれる人が増えてきたような気がします。

 

誰もがどこかで不安というより不信に感じているのかもしれません。

会社という組織に対して。

 

 

 

 

差別と区別

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LGBTを差別するな!

と言われますよね。

口には出さずとも、そんな雰囲気満載です。

それはそれで同意するんですよ。私としては。

でも行き過ぎは嫌だなと。

 

でないと、どこかで暴発して逆にどこかで徹底的な差別を受けることになるんじゃないかと。リンチとか。

 

「差別」って言葉は社会的に強いんですよね。今は。

そのうちに差別を理由に何でもかんでも要求してくるとかね。

我々はLGBTなんだから

LGBTのためのトイレを用意しろ」

「男女の区別をつけるものをすべて排除せよ」

「学校の制服も同じにしろ」

 

黒人差別、部落差別、ユダヤ人差別、在日差別・・・

 

差別っていろんなところにあると思いますが、行き過ぎるとそれを利用するようなやつも多くなってくるわけで。

 

しかもそういう奴の言葉の方が力を持ってきたりして。

 

黒人差別、部落差別、ユダヤ人差別、在日差別、ハンセン氏病・・・

この中で、部落民ユダヤ人については私は全くピンとこないし、

最近では「自分たちから言ってないか?」という気がしてならないのですが、

そうはいっても過去様々に差別的扱いを受けてきた方々がいるのは確かなので、

「気にしなきゃいいじゃん」のようなことは言えません。

 

「差別は絶対にだめだ!」

否定はしません。

でもなぜダメなのか、真面目に考えたことありますか?

これをちゃんと考えて意識しないと、洗脳されます。

洗脳=「理由を考えさせない」ということかと。

 

「差別は考えるまでもなく、絶対的に悪だ!」

と。

私が思うにこういう完全に片方に偏った価値観て怖いと思うんですよね。

 

上にも書きましたが、「なぜ」が重要だと思うんです。

でないと、差別という言葉だけが一人歩きして、差別らしきものはすべて悪、となってしまいます。

そうすると、その内容よりも、差別とみなされたら終わりということで、みんな安全を取って無用に遠巻きになってくると思うんです。

 

つまり、差別の対象になりそうな人たちや施設なんか含めて、まったく近寄らなくなってしまうと。

でも、避けていると思われたら最後なので、そもそも存在していることにすら気づいてませんというテイに。

 

自然とその対象者には誰も声すら掛けなくなると。

 

なので、何が言いたいかというと、結局バランスが大事なんだろうな、と。

どうしても「区別」は一部必要なんだろうなと。

 

差別という行為は、区別した後に扱うレベルを下げることだと思うんです。

私としてはたしかに差別は良く無いと思うものの、区別は必要だろう、と。

男女平等っていっても、男女の区別はしないとまずいでしょ。

 

区別することすら「差別だ!」と言い始めたら、そういった人たちにケアもできなくなりますよ。

 

車椅子の人にエレベーターゆずる。

電車の中で、妊婦さんに席をゆずる。

 

親切はその人の境遇を慮る区別があってこそ成り立つんだと思いますし、行きすぎた差別はそういった区別をも否定することになりかねないので、そもそもどういったことが差別にあたるのかをちゃんと考えないといけないですよね。

 

では。。。m(_ _)m

大企業の終焉

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最近コンプライアンスが厳しいですね。

特に大企業で。

 

さらには昨年末ごろに起きた電通での過労自殺

 

清く正しくはいいかもしれませんよ、確かにね。

でもそれって、見方次第の部分もあるんじゃないですかね?

 

たとえば、部下を脅迫して言うことを聞かせるなんてのは、良くないですね。

パワハラです。

それにセクハラ、挨拶をまったくしなくてモラハラ、香水付けすぎでスメハラ。

 

確かに近くにいたら嫌ですよ。

でもそれってどう感じるかの世界ですから、なんだかいつでも相手がどう感じるかをビクビクしてしまうかもしれないですよね。

 

そもそもなんでこんなに厳しくなっちゃったんですかね。

 

そうそう、あれも私違和感あるんですよ。

反社会的勢力うんぬんという法律。

 

なんかね、日本全体が優等生になろうとしているようで

なんだか上っ面感がいやなんですよね。

 

でも私だってその辺に暴力団がいたら嫌ですよ。

 

でもね、人間て汚い部分も普通にあるじゃないですか。

だから任侠モノとか人気があったわけですし。

ゴルゴ13だってやってることは人殺しだけど、持論が強くてかっこいい。

 

まぁ、個性ですかね。

 

でも大企業は日本政府にたてついてもいいことないので、平等とかモラルとか、誰もが否定できないような事柄にはへいへいと従順です。

 

この先に何があるかといえば、均一化で優等生ばかりになって、個性のかけらもなくなり競争力を失った、骨抜き大企業の群れですよ。

 

グローバル化が進んでいるこの時勢にどこに向かっているのだか。。

 

で、結局大企業は分散化せざるを得ず、小企業に成り代わって規制の網を潜ろうとしますよきっと。

 

でも第3のビールの税金も上げられたように、官僚どもが血を吸いに来るんですよ。

財務省は税金という名の血を。

厚労省は個性という名の血を。